わたしの小さな秘密

 

わたしの右の後ろのポケットには、いつも、あるものが入っています。
そう、それは、御守りです。1つの肌守り。

出かけるときも、ポケットに手をやって、
「ちゃんと入ってるな」って確かめてから出かけます。

 

 

あなたはどうでしょうか?
私は、ふと、不安で何かを怖れるような気持ち、寂しい気持ちになることがあります。

人が人であるゆえの根源的な不安?
変わっていくこと、変われないこと、手に入れられないこと、死に向かうことへの怖れ?
大いなるものとのつながりを忘れ、自分が孤独だと感じる寂しさ?

そもそも自分でさえも自分ではない、という”我”の無い世界へ身を委ねることに対する恐怖?

 

 

でもそんなとき、御守りを持っていると、とても安心するんです。

 

ただその安心は、一方的に神様にすがってお願いし、助けてもらえる守ってもらえる
といったような、そういう安心ではないのです。

自分が大事にしている、ある考えを実践していく上で、
それを思い出させてくれて、覚悟して進んでいるつもりがときに悩み怖れてしまう
そんな自分を、丸ごと「それでいいよ」って見守っていてくれるような、
そんな、心の拠り所、心の支えがあるという安心なんです。

 

 

では、大事にしているその考えはどういうものかと言いますと、それは、

「起こる出来事をあるがまま、良いも悪いも、その両方を受け取る。」

というもの。

 

 

昔、先が見えない悩みの霧の中にいるとき、
自分(私という個の自分)というものが、世界の中に存在していると思っていました。
そして、自分はその世界(悩みの世界)から逃げ出したい、あるいは、
自分がその世界を変えるんだ、変えたい、と、もがいていました。

でも、逃げだそうとするほど、変えようとすればするほど、
逆に、その悩みの世界が迫り来て深くなっていきました。

 

 

霧の晴れない道をどれくらい歩いたんでしょう。長い時間が過ぎました。

でも、進んでいる中で、『いろんな言葉や概念』に出会ったんです。
そして、知りました。

 

 

◆自分というものが世界の中にいるのではなく、自分が世界そのものだということを。

◆この世界は陰と陽から成っており、そこに潜む法則を知り、その流れに沿う智慧をもつことが、
自分が世界である無限の力を活かすための、重要な鍵だということを。

 

 

自分が世界そのものであるのに、
”自分”が”世界”の中にいるという考え自体が、自分と世界とを分離してしまっていたんですね。

そして、そんな自分が、
世界をコントロールしよう(逃げたい、変えたい)とすればするほど、
コントロールできないものが現れてきてしまう。

これを言い換えると、いろんな出来事の中から、自分にとって都合のいい
良い出来事だけを選び出して得ることはできない、ということ。

 

ではどうすればいいのか。

 

起こる出来事・現象を、そのまま、あるがまま受けとる。

陰も陽も、両方をそのまま。
清濁併せ飲む覚悟で。

 

 

陽を受けとるのはいいけど、陰はいやだなぁー って思いました?

そんなときにこそ、思い出してください。
起こる現象自体に、良し悪しなんてないということを。
それ自体定まった固有の意味なんてないということを。

これは良い事だ・悪い事だ、これは得になる事だ・ならない事だ、あの人は良い人だ・悪い人だ、
あのときああすることが正しかった、でも自分は間違ってしまった、もう打つ手はないんだ、なんて、
それを勝手に思い込んで決めつけて判断しているのは、いつも人間、自分。

 

 

陰と陽というのは、陰が悪いことで、陽が良いこと、というのではなく、
あくまでも、反対の性質として相対的に(対向する極として)存在しているというだけ。

それに、世界は一方だけでは存在し得ないんです。必ず陰・陽が「対」となって存在します。
光があるから影があり、影があるから光がある。
もし、世界が光(影)だけならば、影(光)という概念自体も生じません。

 

また、一方だけでは存在しないので、一方だけ取り出そうとすれば、他方も現れ出てきてしまいます。
さらには、一方だけを取り出そうとすればするほど、他方がより一層強く現れ出てきてしまうんです。
すなわち、自分の都合よく良い事だけを手に入れたいと思い、それに執着すればするほど、
その逆である出来事(悪い事、嫌な事)がより強く起こってしまいます。
光が強くなると、影も強まります。

 

また、陰と陽は自在に入れ代わるんです。
陽は陽、陰は陰、とそれぞれが固定されたものとしてこの世に存在しているのではなく、
“人間万事塞翁が馬”、ではないですが、陽は陰にもなるし、また陰は陽にもなります。

 

 

・・なんか、
“陰”とか”陽”という言葉を多用していると誤解が生じそうですが、
そもそも”陰”とか”陽”とか、そんな分別・区別・境界なんて何も無いですからね。
あくまでも私たち人間が、言葉・言語上、思考・概念上の定義として使っているだけです。

なので、さっき、世界は陰と陽から成り、とか、陰と陽は入れ代わる、と言いましたが、
その表現も本当は正しくないということになります。(・・表現する言葉の限界でしょうか)

 

なんと言ったらいいんでしょう。
それはAとBという2つのものから成ったり、
AがBに取って代わって入れ代わるというのではなく、

 

AはBなんです。

陽はそのまま陰でもあり、陰はそのまま陽でもあるんです。

 

 

なので、
そのまま・あるがまま、なんです。

起こる出来事・現象の一切全てを、そのまま・あるがまま受け入れる、
ということ以外ないんです。

 

もっと言いますと、
起こる出来事・現象の一切全ては、自分です。
自分が世界そのものなんです。

自分は世界そのものなんですから、自分と出来事とが別々にあって、
その出来事を自分の方に引き込むようにして「受け入れる」とか、
自分がその出来事へ近づいていって「受け入れる」とか、そういう受け入れるではなく、
その出来事が、それ自体、既にもう自分そのものなんです。
出来事・現象は、即、自分。

 

 

なので、あなたの身の周りに起きている出来事・現象は、
あなたそのもの、あなた自身(あなたの意識・無意識)が「鏡」のように映し出された世界。

 

ということは、
起こっている1つ1つの出来事は自分自身なんですから、その自分を嫌っちゃいけませんよね。
自分から逃げちゃいけないし、臭い物に蓋をして見て見ぬふりしちゃいけない。

・・もっとも、
自分から自分は逃げられないし、臭い物に蓋したままだと、中でえらいことになりますから。

 

起こっている出来事・現象の全て、
沸き起こってくる喜怒哀楽の感情の全ては、
どれも自分自身。 大事な大事な、愛おしい自分。

なので、
そのまま・あるがまま受け入れるということは、
自分を見つめ、自分と向き合い、心の声、体の声に静かに耳を傾けて、
いまその瞬間の気持ちや感情を、「しっかりと味わなきゃいけない」と思うんです。

とたえそれが、不安・怖れ・怒り・憎しみ・悲しみ・寂しさ・嫉妬…、のような
辛くて嫌な気持ちであったとしてもです。

 

 

でも、、何でなんでしょうね。

自分が世界そのものなのに、何でいろんな事が起こるんでしょう、
何でいろんな気持ちや感情を生じる出来事・現象が起こるんでしょうね。
自分が世界そのものなんだから、わざわざそんな事を起こさなくてもいいのに、、ねぇ。

 

 

ただ、思うんです。

きっと、これはきっと、
本当の自分自身を知るため、魂の深い学びのためにあるんだと。

 

常世の世界の神(自分)が、さまざまな制約をもった人(自分)として現世に生まれ出でて、
自分自身を知りながら、魂で学びながら、また元の常世の世界の自分(神)へと還っていく、

そういうことをしながら、世界自体(自分自身)が、さらに高みに向かっていこうとする、
そんな摂理があるんだと。
(人智を越えた世界の話なので、人間では解明不可能ですけども)

 

とすれば、それはすなわち、
あなたの身の周りに起こる現象は、あなた自身を知るためのもの。

陰(陽)という概念がなければ陽(陰)という概念もない、
自分と比較するものがなければ自分の特徴が分からない、というのと同じで、
あなたが自分自身を知るためには、あなたから現れ出でて自分を鏡に映し出す現象が
必要なんです。 あなたの分身としての現象が。

 

ですので、元のあなた自身に戻っていくためにも、
あなたから現れ出でて起こった出来事(あなたの分身)を、
1つ1つ、自分の中に戻してあげなくてはいけません。

 

 

そのためにも、

自分が世界そのものであることに気づき、
起こる一切を、そのまま・あるがまま、受け入れなくてはならない。

 

 

・・
では受け入れることができれば、どうなるのか?

先ほどのように、人間では解明不可能な話ではありますが・・でも、

元の常世(とこよ)の世界のあなたに戻るということは、あなた自身が神になる(神人合一)
ということであり、だとすれば、常世の、光と愛の無限のエネルギーをもって現実の世界を
変えることが可能となる、つまり、奇跡を起こして願いを叶えることができる!
ということにならないでしょうか。

 

 

わたしは、それを信じています。

 

 

 

 

 

・・・
ここで終わらないんです。
さらに話があるんです。(笑)

 

 

 

そのまま・あるがまま受け入れるということは、それだけでも本当にすごいことだと思うのですが、
でもさらに、受け入れたそれらを真に1つに戻すこと、「統合」させることができるのならば、
より、信じていることに近づいていける、そんな気がするんです。

 

では、真に1つに戻すためには、統合させるためにはどうすればいいのか?

 

それは・・

 

受け入れたものに対する、「魔法のふりかけ」、が必要なんです。

その魔法のふりかけとは、、、

 

心からの、あるものです。

 

 

 

でもそれを、ここではあえて言いません。

 

 

 

言うのは簡単です、でも、言葉にしてしまうと、
心からの、ではなくなってしまう・・

 

魔法のふりかけは、「あなた自身の直接の”気づき”」で得なくてはならない。

 

誰かから聞いた、言葉の上ではなく、
あなたの自身の真心から、そのものから自然と沸き起こるようでなくては。

だから、”心からの”、あるものなのです。

 

 

 

 

そのあるものとは、いったい何なんだろう?・・・

もし、その答えに迷ったのなら、
わたしの御守りと同じように、あなたの御守りが助けてくれます。

 

 

御守りを手にし、その答えは何か?と問うとともに、
いま、あなたに生じている出来事を静かに感じ(思考を停止させ)、
そして、その出来事に対する自分の気持ちを、あるがままに観察し、
観念を通して解釈するのではなく、ただ見守ってください。

 

やがて、問うて答えを得ようとする気持ちが消え、問いそのものになるとき、

問う者が問いと一つになり、手にしている御守りと一つになり、出来事そのものとなるとき、

それは自ずと現れてきます。

 

 

 

大丈夫。
あなたはその答えを既に知っていますから。

 

 

 

 

 

 

 

(あとがき)

 

人は、自分と世界とを分けたがる。
ある定まった世界の中に、自分という個の存在があると思いたがる。

自分と世界とを分けて別々のものにしておけば、

うまくいかないことを、何かのせい、世界のせいにできるから。
自己正当化できる理由をもてるし、自分で責任をとらなくてもいいから。

それに、人生の被害者になれるし、悲劇のヒーロー・ヒロインになれるから。
世界から目を背け、自分の殻に閉じこもり、逃げ続けることができるから。

 

これは、
生身の人間としてこの現世(うつしよ)に存在し、
自分を守って生き抜いていかねばならない私たちの、脳に深く刻み込まれた
本能の働きなので、仕方のないことかもしれません。

 

でも本当は、自分=世界、自分は世界そのものなんだから、
自分と世界とを分離させてそれぞれ別ものとして扱って、
“自分が”、”その世界から”逃げたり、”自分が”、”その世界を”変えることはできません。

ここで、あれ?と思いました?
自分が世界そのものなんだから、自分が変われば世界は変わるんじゃないの?

そうなんです、(これまで神社HPの他のページで述べてきたように)
世界は変わります。変えることができます。

 

だけどここで問題になっているのは、
変えようと思うと、その瞬間、自分と世界とが分離してしまう、ということなんです。

自分をよく観察してみてください。
変えようと思うためには、変える対象(世界)が必要となり、
変えようと考える自分(我)が必要になってきますよね。
それに、変えようと執着すればするほど、ますます変え難い出来事
(変えたいと執着しなきゃいけないほど嫌な出来事)が現れてきてしまいます。

これは、変えるためには、変えようとしてはいけない、
コントロールするためには、コントロールしてはいけない、と言っているのと同じですよね。
まさに逆説的。二律背反の世界です。

 

だからこそ、思考や観念を通さない、直接的、経験・体験的である必要があるんです。

ありのまま、そのまま、受けとるといいますか、(受けとろうとしてはいけないですが)
ただ、そのままなんです。そのものになるしかないんです。(なろうとしてはいけないですが)

 

 

難しい話ですよね。。

 

 

難しい話でも、私の説明が下手でも、
でもやっぱり、自分=世界。

 

 

ん? 自分が世界だったら、自分はどこにいっちゃうの?と思っています?

大丈夫です。

 

あなたはわたし、わたしはあなた、みんなあなた、みんな仲間、
過去や未来の時間もみんな、みんなつながっている、
そしてそのみんなつながっている世界が丸ごと、あなた。

だから、一人でいても、一人じゃない。 寂しくなんてない。

 

 

それに、世界(宇宙)の全部が自分の世界なんだから、あなたは、世界の「主」ということ。
この凄まじいエネルギーに満ちあふれている世界の「主」だということ。

なので、何が起こっても、それは自分の広い広い懐の内。泰然自若にして愉しんでいればいい。
そうすれば、なるようになる。 成したいように、なってる。

怖いものなんてない。

 

 

 

「自分こそがこの世界である」、

それを引き受けたとき、世界は変わります。

 

 

 

 

 

 

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